参考:保育ナビ9月号 フレーベル館
フリードリッヒ・フレーベルという世界で初めて日本で言うところの「幼稚園」を作ったドイツの教育家が、ある本でこのように話しています。
「子どもが欲するだけ長く、子どもに静かに深く自分自身で遊ばせるようにすべきである。もしこどもがまなざしや声でおとなにかかわってもらうことを要求したならば、その時われわれは、子どもがしていることをことばで示せばよい。」(幼稚園教育学より 著者フリードリッヒ・フレーベル)
子どもの遊びは時々「毎度同じ遊びをしていて飽きないなぁ」と感じたり、おもちゃをひたすら積み上げたり並べたりするだけで「一体何を楽しんでいるのか…」と感じる事があると思います。
そうした遊びをし始めたら、フレーベルは子どもに「自分自身で遊ばせるようにすべきである」と述べています。つまり、できるだけ手や口をださないこと、なのですが、もし子どもが助けを求めたり、大人に何らかを求めてきたときは、どうすればよいかということを解説しています。
フレーベルは、直接手伝うのではなく、ことばを歌のようにして子どもに届けることの大切さを訴えています。
例えば、積み木をひたすら同じ方向に並べる、というお年頃の遊びがあります。大体皆が通る遊びです。フレーベルはそのときに、すぐに手を出すのではなく、ことばやリズミカルな歌に乗せて、「上へ、上へ、上へ」だけでなく、「上に、下に、上に、下に」あるいは「つけて、はなして、つけて、はなして」など、様々なバリエーションを含んで歌って届けよ、とい言います。
子どもたちが夢中になって遊んでいる遊びに、そのそばで動きを歌の形で楽しく応援し、子どもの遊びと親の言葉遊びが共鳴し合うようにするといい、と著しています。
ブロック=何か形を作る。
積み木=積み上げる。
ミニカー=走らせる。
これはあくまで大人が作り出した「設定した用途」であるということ。まずはそこを脱しましょう。確かに遊び方はそうであっても、時に車に見立てて走らせたり、おままごとになったりするのは、よくあることかと思います。
そして、おもちゃは決められた遊びだけで展開されるものではない、と言うことも見えてくると思います。
何の着眼点で、ひたすら並べるのかはその子どもの感じ方にもよりますので、未知の可能性の範囲なのだと思います。そこで大人が手をすぐに出すのではなく、まずは見守ってあげる、そして遊びの共有をするということが大切です。
フレーベルが言ったように、歌は子どもが遊びの喜びを増やすためのツールとして位置づけられていることがよく分かります。
リズムよく歌のように声をかける、、、って難しい・・・
て思う方もいると思います。
そんなときは、「絵本」です。
2歳以下の絵本には、大きなストーリーよりも、物事が進んでいく様子、オノマトペ、言葉遊びが中心の絵本で構成されています。
例えば「もこ もこ もこ」の絵本や「ごぶごぶ ごぼごぼ」のような、シンプルなことばで楽しめるように、おもちゃで遊ぶときも、その言葉で遊びを共有するのが良いようです。
つまり、「手を出しすぎない」ことが大事、ということ。
同じおもちゃでも、同じあそびでも、繰り返す、夢中になることがとても大切な事です。
・自分で遊びたい気持ちを満たすことができます
・何度も動作をすることで器用になっていきます
・身体の使い方、遊びのバリエーションが増えて自然に学んでいます
子どもの育ちは「遊び」からです。
でも、おもちゃの量、質、ではなく、あそびの共有が「つきあう心がまえ」だと思います。
楽しいと思う、興味が津々だから没頭するのです。
ですから、その思いを汲み取って、ではついでに母も…という気持ちで歌い語るのが良いのかもしれませんね。
ブロックが上手く組み立てられなくても、車と思えない形を「くるま!」と言われても、大人がすぐに手を出さない。
答えをすぐに「出さない」それが大切です。
私たち保育者でも、ついつい子どもよりも先に車を作ってしまいます。でも、その後は必ず同じ部品で同じ形でないと車と思えず、後が困ります(部品が足りないとき、譲歩できない…)
また、子どもの想像しようとする力を育てる事で、自分でやってみたい、先を見通して生活ができるきっかけにもなります。
大人の世界でも同じ事が言えると思います。
分からないことの答えを考えるプロセスが、とても大事です。
何でも手を出してしまっては育成できませんよね。
考える時間があること、その人が答えまで近づこうとすること、そのことにどうぞ同じ目線で同じ方向を向きながら差し伸べていくと良いのかもしれません。
そろそろお盆休みに入ります。じっくり遊ぶ時間を取れるチャンスかもしれません。
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